アンドロメダ症候群T(仮名 |
作者: 刹那(黒嶋 雅 2010年04月04日(日) 21時17分50秒公開 ID:mEFQaJ90Ems |
一等星 均衡の三月兎 今の俺は、頬に朱がさし息が上がっていた。茹だった身体を無理矢理起こすと、腰の痛みがものを言う。 疾しい場面を想像して、はしたない、と思った貴方の方こそ過度の疾しさに体躯を脅かされているのではないだろうか。精神病院へ幾日か通院することを推奨する。 俺の状況説明にそれを思わせるものは断じてないはずだ。万が一あろうものならそれは巷で言うところの「情報伝達においての齟齬の発生」である。 余談はさておき、俺の修正の余地のない完璧な状況説明にいくらか補足をすると、最寄りの公園の緩やかな勾配の上に敷かれた芝生の上に寝ころび(芝生に申し訳ないという多少の良心の呵責は止むを得ず切り捨ててある)、トレーニングで荒れた呼吸を整えているところだ。トレーニングと雖も軽いジョギングに過ぎず、特に連日敢行しているわけでもなし、規定のコースがあるわけでもなし、ただ暇だから走っている、という何とも他愛ない由であると我ながら思う。簡潔に言えば暇潰しだ。 まだ半信半疑な方々の為に更に補足すると、頬の赤みは発汗作用の一貫、息が上がっているのは酸素を体内に吸収しようとする生理的な表れ、腰の痛みは只の筋肉痛という若さの象徴。これで納得いただけない場合は、最寄りの本屋で読解問題の参考書のご購入が望ましいとされる。 視線を上昇させれば、太陽系の中心に位置する某恒星の発光により目視の可能な、決して数多とは言えない星共がちらつく。視界の隅には、年々ビジュアルが矮小化していると言われる青白い月が、半分以上欠如して俺の眼に映っていた。 群青に染まっていたはずの空は何時しか濃度高めの紫へと変わっていた。そろそろ帰るか、と立ち上がると、芝生と共有していた温もりが瞬時にして奪われ、初めてジャージを着てこなかったことを後悔した(実は半袖半ズボンだったのだ)。三月後半とはいえ三寒四温の時、まだ真夏の夜の蒸し暑さは当然のことながら戻っていない。肩を上げ気味にして、俺は早々に公園の敷地内を後にした。 先程はジョギングを暇潰しと明記したが、心中を明かせばもうひとつ理由がある。それは家族との関係があまり芳しくないことにあった。特に虐待被害等には遭っておらず、単なる反抗期と言ってしまえばそれまでなのだが、他の家庭とは少し段の違う疎遠さが俺の家にはあった。幼少の頃から多少なりとも親を傍観視点で見ていた面はあったものの、ここまで険悪なものに発展するとは意外だった。 家族構成は両親(健在)に俺、姉貴が二人。上の方の姉貴は就活だの婚活だので都心部へ移転。大学三年なので何とかやっていけるだろうなどと、放任主義の両親はろくな相談もせずに適当なアパートを見繕い、結果としてそこに入居するはめになった。結局月一単位で親からの仕送りは届いているらしい。俺の知っている姉貴の詳細情報など、こんなものだ。 もう一人の姉貴―すなわち次女―なんて、情報も何もあったもんじゃない。義務教育を終えて、勝手に出てってどっかでなんかやってる。以上。噂じゃちょっと離れたところの某事務所に入っていくところを目撃した奴がいるとか聞いたので、メールだけは通じる為「アイドルでもやってんのか?」と問い質したところ、「バカ言ってんじゃない」と一蹴された。薄情な部分は父親譲りだろう。これ以上何か訊いても噂の真偽さえわからないだろうと判断した俺は、それからメールを送っていない。ずっと音信不通だった弟から唐突にアイドル呼ばわりされる姉貴の気が知れる。同情はしないが。 父親はサラリーマンで母親はパート業、職業という観点から見れば中流家庭なのだが、姉貴二人の家族を敬遠する態度こそが家族間に亀裂を迸らせていた。 などと、よくこういう抽象的な現在進行形の思い出に浸ることがある。これは普段からろくに回転していない脳(この一文で、俺の成績云々については察していただきたい)が本気で暇になったから奥底からあらゆる思い出を引っ張り出してくるという、所謂脳の暇潰し。否、もしかするとジョギングは建前の暇潰しで、本質こちらの方が列記とした暇潰しなのかもしれない。 無駄に感傷的になりすぎた右脳を自嘲し、追い風で項の体温が徐々に降下していることに気づき、闇に同化しきれない黒い髪ゴムをとる。余談だが、黒とは闇色をしているようで真の闇には溶けない。江戸時代の忍は黒の忍服を纏わず、意外にも濃い赤褐色を着ていたという。先人の知恵だなこれも。つくづく先祖の賢しさには感心してしまう。 閑話休題、俺は生まれの産婦人科の担当医がヤブ医者でない限り男なのだが、髪は肩につくか否かくらいまで伸ばしてある。色は適度に茶色い。それはいいのだが先端が著しく茶色すぎる。一回教師に注意された時には半ば本気で遺伝子というものを恨んだほどだ。 私服の時には後ろ姿で女子に見間違えられたりもする。先程のような誤解を招くのは腑に落ちないので記しておくが、服装は決して突飛なものではなかったと自負している(客観的に見て、むしろ他の奴等の方が、髪型を除けば女に見えなくもない服装をしている程だ)。 そんなに酷くはなかったが、幾度か遊び半分でからかわれた。相手方も嘲笑気味に言っていたわけではなかったし、もとからそういうことは気にしない性だったので、気にせずその長さを保持し続けている。願掛け等、大層な事をしているわけではない。趣味で伸ばしているだけの話だ。 そんな茶髪を風は弄び、自宅に着いたのは頭皮付近の換気が十分すぎるほどになされた時だった。 ただいまも言わずドアを開け、上階の自室へなだれ込む。刹那、暖房機のスイッチを入れ、一先ず質素なシングルベッドに身を預けた。無茶をしすぎたのか、疲労感がいつもに増して凄まじい。連ねるようにして生まれながらにして患っている低血糖、低血圧、冷え性が俺の身体を蝕むのに奔走しやがっている。やがて疲労は睡魔へと化し、意識は視界が半分以上遮られた時に途切れ、闇だけが視界を網羅している中、眠りに落ちた。 優雅な、清楚な旋律と共に。 |
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