【二十日余りバス】 2/4 |
作者: フォルテ・だだん 2010年09月13日(月) 20時58分49秒公開 ID:ljYRrA1fhGE |
雨水教諭がバスを降りた後も、臥待は恩師の言葉を何度も頭の中で繰り返した。抜けた穴を。どうにか埋め尽くすために。 だから、横にいた老人が肘で小突いてきても、しばらく気付かなかったのだ。 「お兄さんお兄さん」 臥待が横を向いた。皺くちゃのお爺さんが、にこにこと笑っている。禿げ頭が見下ろせるくらい、小柄な老人だった。 「はいはい、何ですか。お爺さん」 「さっきの話聞いてたぞ。なかなか、立派な先生じゃったのぅ」口をもごもごと動かして、囁くように言う。「それから、あんたの聞き上手にもびっくりしたわい」 老人は臥待のコートの袖を握ったまま、離そうとしない。 「 「良いですよ。僕には何もお話しするものはありませんからね」 「ふぉっふぉっふぉっ! そうかいそうかい。そりゃ、ありがたいねぇ。お兄さんが、ぼきゃぶらりぃのセンスを磨いた時には、今度は某がお兄さんのお話を聞きますぞ。それまでは、しばし某の古臭い話題に付き合ってくだされ」 癸酉臥待は、老人に出会ったことがあるような気がした。だが、雨水教諭と同じく、自分を知らないと言いそうだったので、黙っておいた。 一晩に二度も知り合いに忘れられるなんて、艱難辛苦、耐えられない。 そう思うと、臥待は沈黙を守り、彼の話に耳を傾けるしかなかった。 老人は瞳に流星群を躍らせながら、わくわくと言った様子で口を開いた。 「 某が今よりも、ちと若い頃に、男の子の方の孫と、すたじあむに野球を観に行ったことがある。坊が本当に小さかった頃じゃ。坊はそこで、球を投げ取った臥薪投手に憧れてしまって、そのちーむの青い帽子をスタジアムで買ってやった。坊は喜んで、毎日毎日その野球帽を被り続けたんじゃ。そして某に言うんじゃよ。お祖父ちゃん! 僕は将来ぷろ野球選手になりたいんだ。だから、どうしても野球ちーむに入りたいんだ、っての。某は感激して、その意を坊の母親――詠子さんじゃな――に伝えた。坊を少年野球ちーむに入れてくれと熱心に頼み込んだんじゃ。お月謝は某が払うと言ったら、しぶしぶ了解してくれたわい。 それから、坊は野球に熱心に打ち込んでいった。中学生になった時には、野球部に入部してぴっちゃーをやっていたのぅ。某は嬉しくて、試合があればいつも坊を観に行ったのじゃ。某が言うのもなんじゃが、坊は他のちーむめいとよりも、ずっと抜きん出ていた。ふぉっふぉっふぉっ。とにかく上手かった。だども、宮俊も詠子さんも、坊の試合へは一度も来てくれんかった。某だけが坊の試合に夢中になっとった。 坊と某はいつも仲良しじゃ。じゃが、息子夫婦と坊の間には少しばかり溝が出来ていた。坊が中学校三年生になった時、とうとう親子喧嘩になっちまってのぅ。それはそれは酷いもんじゃった。坊は野球で有名な私立高校へ行きたかったんじゃが、宮俊達は自分の息子を大学合格率の高い国立高校へ入れたがっておった。坊はもちろん嫌がっていたし、自分は野球に打ち込んであまり勉強に熱心ではなかった。疎かにし過ぎてしまった。と言ったんじゃ。某も、宮俊や詠子さんに、一所懸命お願いして、どうか坊を野球の強い高校へ行かせてくれと頼み込んだ。けど、駄目じゃったな。とうとう坊が根負けして、両親の方針に従うことになったのじゃ。夏で野球部を引退した坊は、学校の授業が終わると、真っ直ぐ塾へ行って勉強に励んだ。塾が休みの日は、家に家庭教師を呼んで見てもらっていた。まだ時間がある時は、自分の両親や姉に勉強を教わり、毎日血が滲むような勉強を無理矢理続けていったのじゃ。本当に、想像するのが難しいほど、異常な勉強量じゃった。 まあ、さすが、某の孫じゃ! 絶対に不可能、絶望的とまで言われた、れべるの高い国立高校にぽんっと合格しちまったのさ。そして、奴はあっという間に有名国立高校に入学した。幸いにも、そこには野球部があって、坊はあっという間に入部した。またあの素晴らしいピッチングを某に見せてくれるようになったのじゃ。 ある日のことじゃ。また某の息子が坊と喧嘩になってのぅ。今度は、この間異常に悲惨な状態で、それはそれは殴る蹴るの大乱闘。二人とも大怪我を負い、そろって病院に担ぎこまれるくらいじゃった。 それで・・・・、坊は肩を・・・・、肩を痛めちまった。その時、初めて某は自分の息子を、宮俊を、殺したいと思ったんじゃ! 某は息子に食ってかかった。どうして坊を苛めるのじゃと。どうして坊の言うとおりにしてやらなんだ、と。息子は悪びれた様子も無く、坊の成績は平均を大きく下回り、坊はそのことを何とも思っていない、と言うのじゃ。某は鼻で笑ってやった。お前さんが無理に坊を従わせようとするからじゃ。お前さんが全て悪かった。自分がそうだからとて、坊がお医者さまになるとは限らん。坊は野球が上手かったから、坊は野球選手になったかもしれん! お前さんは、坊に自分の夢を押し付けただけでなく、坊自身の夢と希望をぶち壊したのじゃ! 坊が可哀想でならん。 ・・・・結局、坊は野球を止めた。そして、一日中狂ったように、働き始めたのじゃ。坊は自分が貯めた金で、参考書を買い、予備校に通い始めた。某が、それとなく尋ねると、坊は言っておった。僕は公務員になるよ。東京都特別区の一般事務をやろうと思っているんだ。 坊の賢さは、皮肉にも、一般的には並み以上であったから、またぽんっと受かっちまった。某かい? もちろん、坊の決めたことに喜んでやったぞ! 坊は自分の姉の所でしばらく住むことになった。近いうちにそうなることは分かっていたのじゃが、某はたまらなく哀しくなった。それでも坊は優しい子でのぅ。某のことばかり心配してくれるのじゃ。本当は坊が一番可哀想じゃというのに、坊を助けてやれなかった某のことばかり気にかけるのじゃった。坊が言えを出る時に、坊は某に帽子を――野球帽をくれてのぅ。ほら、これがそうじゃ」 どこからか、老人の手には青い薄汚れた野球帽が握られていた。少年用の、小さな帽子だった。臥待はそれをたまらなく凝視した。 「坊はありがとうと言ったんじゃ。坊が出て行った後も、某はあの帽子を坊のように思って、大切にしたんじゃ。ふぉっふぉっふぉっ。あんた、何故に泣いておるんじゃ? こっちが恥ずかしくなるわい」 老人はくすくす悪戯っぽく笑うと、野球帽を臥待の方へ差し出した。真っ直ぐ、優しい瞳を臥待に向けている。 「あんた、これを持っててくれんかのぅ。某と坊の思い出なんじゃ・・・」 お爺さんは去っていた。癸酉臥待の手には、その小さな帽子が、小さく収まっていた。切歯して、臥待は堪えきれない何かを、堪えていた。無理だと分かっていたのに、耐えていた。 |
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