【二十日余りバス】 4/4 |
作者: フォルテ・だだん 2010年09月13日(月) 21時23分58秒公開 ID:ljYRrA1fhGE |
夏のあの日。旅行が好きな妻は、いつものようにどこかへ出かけようと言い出した。臥待はそれに従うことを、義務としており、断ることは万に一つも許されなかった。 娘と三人で、近くの山でキャンプをすることになった。暑い夏だった。暑さ対策には抜かりが無いように注意した。 臥待は車の運転を任され、妻と娘の歌声に耳を傾けていた。楽しげに始まった旅。それはそれは家族の心を満たしてくれていた。向かうのは、幸せへ。 どこからだったか。 山道をドライブしていると、トンネルが見えてきた。その家族はただ楽しんでいただけだったのに。 本当にあっけなく。真実、あっけなく。 上からトンネルが瓦解した。車は大きく回転し、酷い具合にあちこちぶつかった。轟音が次々と頭蓋骨を揺らし、砕けたトンネルが親子の上に降り注いできた。それは氷雨のように、雹よりも、霰よりも、更に激しく狼藉を働いた。危急存亡がまさに目と鼻の先に転がっていた。臥待は自分が死ぬことを予感した。妻の庚も、娘を抱きかかえ、後部座席でうずくまっていた。 「運転席にいた僕が運良く助かったのに・・・・」 臥待は苦悩に表情を歪めながら、姉に話して聞かせる。 「後部座席は酷いありさまだった。だけど、娘は妻の腕の中で生きていた。僕達は逆さまになった車の中にいて、周囲は尖がった岩だらけだった」 薄暗い中で、娘の泣き声が木霊した。嫌なガソリンの臭いが立ち込め、臥待は全身震え、車から何とか脱出した。 「僕は歪んでしまったドアから這い出て、後ろへ回り込み、二人を助けに行った」 もしかしたら、車が今すぐにでも漏れ出したガソリンに発火するかもしれない。そう思うと、早々に二人の生死を確認した。 「娘は小さくて、下からのそのそ出てきた。奇跡的にほぼ無傷だった。僕は娘が出てきたところから、荒れた車内を覗いてみた。すると、妻が見えた」 車内はどれが座席なのか、何が車の部品なのかよく分からない悲惨で無様な様子。臥待の身体では、車内に入ることは出来ない。しかし、目を向けることならできる。 妻のまぶたは閉じられていた。頭から血を流して、気を失っている・・・。 「その時、僕は本当の自分を見つけた」臥待が吐き捨てるように姉に言った。「勝ち組のくせによく言うな。僕は本当に、両親の期待に添いたかったんだ。でも、僕は馬鹿だから、姉さんのようにはいかなかった」 例えば、この時、自分が医者であったなら? 妻に手当てしてあげられたかもしれない。どうして、家族皆医者なのに、自分だけ異なるのだ。奇妙奇怪奇天烈。酷い嫉妬の渦に呑まれ、劣等感だけしかいつもない。そして、その劣等性故の無力さは、とうに知り尽くしている。 やがて、妻は死んだ。臥待は何もできなかった。 「妻は死んだが、僕は娘だけでも救いたかった。車に積んであった食べ物を何とか引っ張り出して、僕と娘は比較的岩の少ない所へ逃げていった。車から離れて、妻とも別れた」 車は今にも燃え出して、爆発するかもしれない。そんな恐怖を胸に抱えつつ、僕と娘は四日間暗い壊れたトンネルの中でじっとしていた。息苦しくないところからすると、どこかから空気は入ってくるらしい。 嗚呼。まぶたを閉じると、あの埃っぽい暗闇が浮かび上がる。娘を良く見えもしない暗がりであやした。臥待は酷く怯えていた。しかしそれ以上に、彼の娘は狂ったように叫喚した。 四日目に臥待達は奇跡的にあっけなく救助された。 救助隊の者はまず始めに、生きているのは二人だけか、と尋ねた。臥待は、はい、と短く答えた。だが、彼は不思議そうにもう一度人数を確認する。しかし、臥待と娘しかそこにはいない。 「救助隊の人は、女性の声がしたから、僕達の居場所が特定できたと言っていた。てっきり、僕はその声は、妻の声かと思った」 癸酉小望は無表情で沈黙している。 「僕も声を聞いたような気がしたんだ。娘も聞いたと言っている。だが、僕も娘も、庚の声ではないと思った」 トンネルを抜けて、バスは道路を突っ走っていた。いつの間にか、山道は消え去り、住宅街の真ん中を平然と運行していく。やがて橋が見えてきた。満足に歩道も作られていない、ただの橋の上。バス停標識は蹴飛ばされたかのように、斜めに突っ立っている。 臥待がこのバスに乗車した、まさにその停留所だった。 「姉さんだね。姉さんが、あの時僕と娘を助けてくれたんだ」 姉はゆっくりと口を開いて、こちらを凝視した。 「せっかく助かったんだから、こんなバスに乗るなんてホント馬鹿ね」 冷たく、姉らしく言った。 「早く降りなさい。あんたの家の前よ」 臥待は立ち上がり、静かに頭を下げて、バスから降りた。バスは大きなタイヤを回して、背を向けた。その薄紫色の車体がやがて小さくなり、角を曲がって見えなくなった。 臥待が空を見上げると、既に星は跡形も無く消え去っていた。河童のいない川が、朝日できらきらと輝いている。 臥待は家へ戻ることにした。帰宅すると、娘が玄関の前で仁王立ちポーズを決めている。まだ眠気の抜けきらない顔で娘は言う。 「ねーパパー。どこ行ってたのー?」 そばかすに眼鏡。痩せた矮躯。小さい頃の妻にそっくりだ。 臥待は靴を無造作に脱ぎ捨て、娘を抱き上げた。 「ねーパパー。聞いてるー?」 「 「え?」 「パパずっと考えていたんだよ。パパ一人じゃ、お前を満足させてあげられないんじゃないかって」 癸酉臥待は生真面目な男だった。娘に対して、最大限の愛情を注ぎ、娘のことで悩み苦しんでいた。一番可愛い娘となかなか遊んであげれず、寂しい思いばかりさせている。思い詰め、彼は死にたくなった。死ぬ以外のことを考えるのは困難になっていた。そんな臥待に、姉が叱り付けてくれた。臥待はここで初めて、誰かの協力無しで娘一人を育て上げることは、娘と二人っきりで生きていくことは難しいことを知った。 「今度、パパのお父さんとお母さん・・・・。つまり、丙のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの所へ遊びに行ってみないか? 一度も会ったことがないだろう? ・・・・実はパパも幾年か前に会ったきりなんだ」 臥待は独りでは娘を育てることはできない。久方ぶりに、両親を頼るのは、悪いことではないように思えた。娘の面倒を少しばかり見てもらったら、どうだろうか。 今度は孫を医者にするとか何とか言い出すんじゃないだろうな。 「パパ、緊張しているの?」 「ん? ・・・・・・ああ、そうだな」 「丙と一緒に行こう! 大丈夫だよ」 そして、父子の姿は暖かい家庭の中へと消えて行った。 早朝で控えめだった白い太陽が真上に昇り、曇天を真っ二つに切り込んだ。 やがてそれは沈みかけ、真っ赤に染まり、闇と代わる。黄金色の月が闇の中からすっと立ち上がり、誰もが眠りに着く。 二十日余りの月の頃。また、あのバスが揺られながらやって来る――。 |
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